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みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
みことばをともに No13
みことばをともに No12
みことばをともに No11
みことばをともに No10
みことばをともに No9
みことばをともに No8
みことばをともに No7
みことばをともに No6
みことばをともに No5
みことばをともに No4
みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1

  さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

  キリスト者の使命は、全ての人に福音を告げ、その教えにともなう恵みを人々が感じ取り、その恵みによって生かされるように、神と人に仕えることである。
キリストの教えはガリラヤから始まって、全世界に広まった。今では全世界に11億人、日本にも45万人のカトリック信者がいる。
  これまでの教会の歩みは容易ではなかった。 荒波に翻弄される小舟のように、教会の初めからイエスを信じる人たちに対する迫害が行われ、多くの人々が自分の命を賭してキリストへの信仰を表明した。そしてそれは今の時代も繰り返し行われているし、これからも行われることだろう。それは神を信じる人の生き方や行動が、神を信じない人にとって「とがめ立て」と映り重荷となるからである。(知恵2.14-15参照)
  また歴史の流れの中で、教会はこの世の権力と相俟って、人々の信頼を失うこともあった。教会は自分のふところに罪人を抱いているから、「聖であると同時に常に清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続ける」(教会憲章8)べき存在である。 社会の中で社会と共に歩むということは、常に我・欲の中に引き入れられる面に直面していることでもある。
  特に現代、科学実証主義思想の中で、情報化社会の中で、相対主義の思想の中で、そしてPAF(平和と豊かさと自由)状況の中で、教会はのび悩んでいる。教会独自の素晴らしさを十分に展開し現すことができないでいる。

  教会はこれまで何度も、信仰の刷新を試みてきた。そのための色々な集まりが行われた。そしてその時代、それなりの成果を得てきた。21世紀に生きる私たちキリスト者に与えられる使命は、今、この時代、ここにキリストを現存させることである。キリストは言われる。

 
  「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5.16)

   わたしたちキリスト者はキリストの教えを理解するのみならず、それに具体的に生き、人々がそこにキリストの現存を感じるほどに、キリストの教えを具体化し、神の恵みを現存させる使命がある。これが福音宣教である。もし神の恵みを、キリストの実存をここに現存させ得ないなら、この世の人々は神を知ることもキリストを知ることもできない。そうなれば、いつしか神もキリストも存在しないことになろう。
現代、人々の神離れ、教会離れが見られるが、それは人々が神の恵みを具体的に感じ取れないからであろう。キリストを現存させ、神の恵みを感じ取らせる人たちが居なくなってきているからではないだろうか。
  教会はいつの時代も、キリストの現存を示す諸秘跡を大切にしてきた。また神のみ言葉や神との語らいである祈りを大切にしてきた。秘跡やみ言葉、祈りは神と人間と関わらせる手段であり、これらなしは人と神との関わりは薄れついには切れてしまうことになる。
秘跡、特にミサ聖祭、神のみ言葉、祈りが大切にされるなら、人は神とのつながりを増し、自分を普遍的宗教的存在基盤に据えることが出来るし、そこから自分を知り、自己充足に至らせ、自己肯定ができるようになる。神とのつながりが、必然的に自己肯定と他者への奉仕に広がるからである。 
  従って、秘跡執行おいて、神のみ言葉の朗読において、そして祈りの実践において、それに与り、それを見る人たちに、キリストの現存を感じ取らせ、神の恵みを実感させ得るために、心を込めて美しい典礼を行うよう心がけたいものである。