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| 日々、聖書を手に取り、イエス様の言葉に静かな心で耳を傾けたいとつとめています。修道生活の年数を重ねて歩むことができたお陰で、イエス様のあのお言葉、このお言葉が一つに重なってくるようになりました。ある時期には、聖書の箇所を、イエス様の別のお言葉で理解できるということに気づき、嬉しくなったりもしました。イエス様がご生涯を過ごされた地を訪れる機会には恵まれていませんが、イエス様を大変身近に感じることができるのは無償のめぐみに他なりません。感謝の一語です。
マルコは、4人の漁師たちとの出会い(マルコ1:16-21)をあっさりと手短かに描いています。「私について来なさい。人を漁るものにしよう」。このことばには、その人の存在の有り様、生き方など人生の大転換を暗示する内容が含まれています。漁師であった彼らには、おそらく荒くれた一面があったでしょう。 |
小さな村で、毎日、仲間と共に必要な漁が出来ることに幸せを感じていたかも知れません。市場では捕れた魚に値段をつけながら威勢良く村人と交わっていく素朴さも伺えます。最近、ペトロの家の跡といわれる遺跡の写真を見ましたが、当時としては割に大きな建てもので、姑の部屋と思われる一部もありました。ペトロは漁師として財産をもっていた裕福な人であったと言えます。その仲間とてそのように考えられます。イエス様はそのような人たちに声を掛けられました。イエス様は彼らのどこが気に入ったのでしょうか? 粗野であるが、正直であるところ? 単純素朴なところ? お金持ちだから? 男性だから? もしかして自分についてくるかもしれないからイチかバチか声をかけられた? 一方、ペトロたちはといえば、近頃、付近に姿を現す珍しい人、教えを説いている期待できそうな人、とても威厳があって従いなさいといわれて従ったのでしょうか? 人を漁る漁師などという珍しいことを言う人だから従ったのでしょうか? 「すぐに網を捨てて従った」のですから不思議です。
私が住んでいる修道院に水産を家業としている家庭の出身者がいます。親戚縁者で水産業を営んでいて、話によりますと、複数の船でチームを組んで沖に出、リーダー格になる人は、魚が群れになっていそうなところを経験からくる勘、直感で見つけだし、他の人はそれに従って網を下ろすのだということです。大漁の時には大漁手当があり、不漁の時には、それなりに考えられるそうです。聖書の中の出来事がより現実味を帯びて感じられます。父親、母親、奥さん、財産である船と網、雇い人たちを置いてイエス様に従った彼らたちです。ある日、ペトロはとうとう勇気を出して「このとおり、わたしたちは何もかもあなたに従って参りました。」(マルコ10:28)と、さも何の報いを受けるのでしょうかと言いたげにイエス様に尋ねました。それに対して「はっき言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける・・・」ことになるとイエス様は保証されました。「私に従いなさい」「人を漁るものにしよう」このように飾りや説明もなく短かくて本質的、威厳に満ちた呼びかけでしたが、そのことばについて行き、導かれるままに委ねたペトロたちは思わぬ道を歩むことになりました。魚が相手ではなく人間を相手にするのですから。 |
さて、私たちならばどうしたでしょうか? ついていきますか?
「船の右側に網をおろしなさい。そうすればとれるはずだ」(ヨハネ21:6) 弟子たちはその指図に従ったお陰で大漁に恵まれ、さらに、復活されたイエス様に出会うことができました。私たちも素晴らしい出会いを逃したくはありませんね。(引用は共同訳聖書使用) |
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