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  8月は聖母の被昇天の祝いの月であり、終戦記念日の月でもある。また仏教ではお盆を祝い、故人(死者)とのつながりを確認する月である。聖母の被昇天は、神による人類の救いの計画に、その生涯を全く奉献したマリアが、神の側にまで上げられることを祝う出来事であり、キリスト者の希望の象徴的出来事であり、神と人との和の日である。終戦記念日は平和の到来の宣言の日であり、お盆も親族関係における交わりと和の行事である。いずれにしても8月は「平和」と深く関連した月である。  イエズスがこの世に来られたのは、人を「罪からの救うため」である。

  イエズスがこの世に来られたのは、人を「罪からの救うため」である。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2.17)

 この世界は弱肉強食の戦いの世界であり、お互いを否定しあう世界である。お互いの存在を否定し、歪めることが日常となっている世界である。事実、私たちの周りには必ず戦争があり、闘争があり、ケンカがあり、批判、非難、蔑み、罵倒、悪口、噂話が横行している。どんな小さな共同体においても分裂、対立の波が繰り返し押し寄せては引いている。人間社会から「戦い」を取り除くことは不可能である。それは「生きる」ための根源的力が「欲」「望み」だからである。「欲」「望み」は容易に秩序を離れ過度あるいは過小になり、容易に他と軋轢が生じることになる。「生きる」とは「闘争」であり、他否定の行為を必然的に帯びている。
  罪とは「自他の存在を歪め否定することである」。それは上述のように「生きる」ことと必然的に結ばれている行為である。この意味では人間が「罪を犯さない」ということは極めて難しいことになる。つまり誰もが、罪を犯す存在であり「罪人である」ことになる。言い換えれば人は平和にではなく、むしろ分裂、対立、争いに、自然に向く存在であるといえよう。

 しかし反面、人間は神の似像として創造されている。(創世記1.27) 神は世界の創造を「よし」とされた。(創世記1.18)神は創造されたものを全てご覧になり、それらの存在を認められた(創世記1.31)。神が認めるときすべてのものは存在する。存在が認められるところに平穏、安心、平和があった。人間はこの平和の中で創造され、被造物をよりよく平和に保つために神よりの使命を受けた。(創世記1.28)
  人間は罪を犯す存在であり、容易に反平和的行為を行う存在であるが、本来的には平和の中で生き平和を希求し、平和のために生きる存在である。
私たちに平和を示し、平和を教え、平和にむけて人を導くのはメシアである主・キリストである。
キリストは言う。
  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14.27)
 この世界では平和を維持するために武力が使われる。力が強い者が弱い者を制圧して動けないようにしがちである。特に民主主義が廃れ独裁的政治に陥る場合にはそうなりがちである。しかしイエスが与える平和は、愛に基づく平和であり、相手の痛みを聴き、相手と共に歩み、自分が痛み損をしてでも相手を生かすことによってもたらされる平和である。従って、人によってはイエスの平和は痛みとなる。イエスは言う、
  「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイ10.34)
  損することを怖れず、痛む愛による平和の回復と維持。これがイエスが私たちに示し教える平和である。その平和において人は、親の愛に抱かれる子供が味わう平和を体験する。そこで人は平穏、安心、安定、愛の充満、完全、豊かさを味わい、他者を大切にし愛する力を育むのである。
誰もがこの平和に招かれており、そして特にキリストの宣教者である司祭・修道者はこの平和のために働くように招かれている。 

 

 

イエスは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20.21

平和を実現する人々は、幸いである、/ その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイ5.9)

<完>

    みことばをともに_No.17