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みことばをともに No20
みことばをともに No19
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みことばをともに No2
みことばをともに No1

  私たちは、生涯の間で何人の人を“洗礼”に導くことができるでしょうか。司祭は、自分が司牧をする中で何人かの求道者と接する機会があるかもしれません。しかし、一般の信徒は司祭のように求道者を洗礼に導くということはそんなに機会がないのではないでしょう。

  この箇所は、サマリアの女性とイエス様との出会いによって多くのサマリア人がイエス様を信じた場面です。 イエス様は、エルサレムに行く途中サマリアにお入りになられ、町にある井戸の所でお休みになられます。 そこへやって来た女性にイエス様は、「水を飲ませてください」と声をおかけになります。 この一言からイエス様と彼女の会話が始まります。 イエス様は、“渇くことのない水”“彼女の夫のこと”“真の神殿”“ご自分がメシアであること”という会話を彼女とします。最初いぶかしげに接していた彼女は、次第にイエス様との会話に夢中になって行きます。   

   彼女は、イエス様と会話をする中で彼女の中にイエス様のことでいっぱいになったのではないでしょうか。 彼女は、今まで5人の夫をもって、新たにもう1人の夫ではない男性と暮らしていました。 どちらかというと町でも周りから冷ややかな視線で見られていました。そんな彼女の寒々とした心はイエス様の優しさと 愛情で徐々に暖められていきます。 ついに彼女は、みんなの所へ引き返し 「 さあ、来て、見てご覧なさい。わたしがしたことを 何もかも言いあてた人がいます。もしかしたら、この人がメシアではないでしょうか。」(ヨハネ4・29)。と言って町の人にイエス様のことを人々に知らせます。

   町の人たちは、彼女の言葉を聞いてイエス様のところへ行き、イエス様のことを信じます。 イエス様は、そこの場所に2日間滞在されます。 その間にさらに多くの人がイエス様のことを信じるようになりました。 この多くの人たちがイエス様を信じたきっかけを作ったのは、彼女の「さあ、来て、見てご覧なさい。わたしがしたことを何もかも言いあてた人がいます。もしかしたら、この人がメシアではないでしょうか。」という一言だったのです。 もう少し、見て行きますと、イエス様が「水を飲ませてください」という一言に、彼女が答えたということからなのです。

  イエス様は、私たちに「水を飲ませてください」と言われているのかもしれません。私たちは、そのイエス様の声に耳を傾け、イエス様と対話をしながら私たちの中をイエス様で“いっぱい”に満たさなければ行けないのではないでしょうか。私たち一人ひとりの召命は、イエス様で充満された喜びで人々に接すること、イエス様との出会いを人々に伝えて行くことから始まると言ってもいいでしょう。

  サマリアの女性は、人々から罪人のレッテルを貼られた罪深い女性でした。それでも、イエス様の愛に満たされ、その喜びを人々に知らせに行ったのです。 私たちは、一人ひとり罪を背負った者です。イエス様は、そんな私たちをご存知でありながらも、私たち一人ひとりを使って福音宣教者とされます。私たちは、自分が置かれた場所で精一杯イエス様との出会いを伝える事が、私たちの“召命”を生きることになると思います。このことに信頼して、イエス様の愛を人々に伝えて行きたいものです。

  みことばをともに_No.18