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  5月は聖母の月。マリアはイエスの母であり、私たちの母でもある。それはイエスが十字架上から使徒ヨハネに母マリアを母として託したからである。

  イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19.25-27)

  マリアは私たちに神による救いの第一の協力者として在るべき姿を示す。まずそれは自分の全てを捧げることである。

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1.38)

  すべてを神に託す。その意味は何であったろうか。「御旨のままに」という言葉は、美しい響きをもっている。しかしそれは全面的自己奉献であり、ある意味で神による「救いの道具」になることである。
  神による人の「罪からの救い」は、イエスが人となり、人と共に生き、人と共に苦しみ、人として死に、そして復活することによって罪の結果としての苦しみと死に対する勝利を通してなされた。
  神による救いは、人に添うことによってなされる。添うということは全面的に相手のあるがままを受け入れ、相手の順境逆境を共に歩むことである。イエスは人を孤独にしない。永遠の命に至るまで、共に歩まれる。実際、字架上でイエスは回心の心を持った犯罪人の一人に希望の言葉をかけている。

  十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ293.39-43)

  人の救いのためになされた、人類へのイエスの同伴は、マリアのイエスへの同伴なしには成り立たない。
マリアはその生涯、生まれる前から死ぬまで、そして聖霊降臨によって教会が設立されてもマリアはキリストの教会に同伴されている。

  母マリアのイエスへの同伴は喜びだけではない。マリアの神の使いに対してなされたフィアト(お言葉の通りこの身になりますように)の言葉には、シメオンが預言した内容が必然的伴うものであった。

  シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2.34-35)

  「剣で心を貫かれる」というのは、イエスに対する反対の動きと、イエスの受難と死を意味する。
イエスが「気が変になっている」「悪霊の頭」のごとく言われるとき、マリアはイエスのもとを訪ねる。

 

身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。・・・・イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると・・  (マルコ3.21-32)

  自分の子供が「変になった」「悪霊の頭」などと言われているときに安心できる母がいるだろうか。しかしこれは序の口であった。イエスが逮捕され、死刑の宣告を受け、受難と死の道を歩まれるとき、母の心は張り裂けんばかりに痛んだことだろう。ヨハネ福音はイエスの母が、十字架の側にいたと書いている。

  イエスの十字架のそばには、そのの姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。(ヨハネ19.25)
  マリアはイエスの死にいたるまで同伴したことになる。死に逝く人は、同時に多くの人が死ぬとしても、それでも死ぬのは、それぞれの人、その人一人の命である。マリアは死に逝くイエスに同伴し、イエスは回心した犯罪人の死に同伴する。
  自分の腹を痛めて生んだ、愛する子を失う母の苦しみは、最も苦しい喪失の一つである。マリアはその苦しみを引き受けた。イエスは自分の命を人類のために捧げたが、マリアもそのイエスと共に喪失の痛みを引き受けた。イエスの十字架の死とマリアの「喪失の痛み」の二つは、人類の救いの業の表裏である。自分自身の死と同じくらいに、愛する人の死は重い。マリアは人間の喪失の痛みの部分を、愛する子の救いの業に合わせたのである。ここにも救いの業に協力するものの姿がある。種々の喪失の為に痛む人と共に歩む力が救いの協力者には求められる。