人の回心力を引き出しました。富める青年に真のあり方を教えました。十字架上の死にいたるほどに弱くされている人の側にいました。キリストの肉を食するとは、キリストのこのようなあり方に近づき、まねながら生きる者になることです。この時間と空間の中で他人を具体的に生かす者になることです。
また、キリストの血、すなわちミサ聖祭の中でのブドウ酒を飲むことで、神との新しい救いの契約を行うことになります。「救い」という言葉は、日常の中で、困難に直面することなく満たされながら生きている者にとって、心に強く迫ることばではありません。「私には救いは不要。なんでも自由に、自分の力でできるから」と考えるからです。自分が神になっている人にとって「救い」は滑稽なことでしかありません。しかし「救い」ということばの意味は、その人が神の恵みに満たされ、最高に神の似像に生きるものとなることを意味します。すなわち、自分が痛んでも、損をしてでも他を生かす者となれることです。それは自分を被虐化することでも、軽視することでもなく、「友のために命を捨てること。これ以上の愛はない」というイエスの言葉に真にいきることです。
またキリストの血を頂くとは、それはいうまでもなく、霊的な意味においてですが、キリストの命にあずかることです。キリストは死と復活を通して「永遠の命」の相で、命を考え捉える可能性と力を回復してくださいました。 有限の現実を永遠の相で観ながら、永遠から力を汲む生き方ができるようになったのです。人間の有限の関わりを永遠にまで広げることができるようになったのです。すでに天の国へ旅立った先祖、故人たちとの実存的関わりとその意味を理解することが可能となりました。そして永遠の相で物事を見ることができるゆえに、死を恐れず「敵をも愛する」ことができるようになったのです。
キリストへの信仰は私たちの日常を霊的に豊かにします。キリストに従う時に自分の存在が縦にも横にも広がり深まるのです。キリストに生きる味わいを知ったら、心が安定し、その活き活きした心が自分からあふれ、他を大切にするようになります。主キリストは、わたしたちの心がいつも満たされ、愛に溢れるものとなるように招き続けているのではないでしょうか。
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