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  この10月11日から信仰年が始まりました。今年は第二バチカン公会議開幕から50周年にあたりますし、また日本教会にとってはNICE1(第一回福音宣教推進全国会議)から25年になります。この節目の年は今一度、キリスト者としての生き方や信仰を見直すよい機会です。神離れ、教会離れが叫ばれるだけでなく、その現実をひしひしと感じる現代、信仰の意味とその重要性を再確認することは、大切なことであると思われます。
  キリストに対する不信は、何も今始まったことではなく、キリストの時代、キリストその人に向けられた事実でありました。「あなたたちも離れるつもりか」(6.67) イエズスの落胆と失望を感じ取らせる言葉です。

  キリストに対する信仰は、単にキリストの教えを理解し信じるだけでは足りません。キリストを信じるとは、キリストの教えに自分の存在をゆだねることです。キリストの教えに具体的に生きることです。抽象的な理解にとどまるのではなく、具体的に生きることで、具体的に物が動き、その物の動きを具体的に感じることが必要です。キリストの教えは、具体的に見える形になることが不可欠です。見えない神の恵みが、具体的に人の行いを通して見えるものとなることこそが福音宣教です。

  人がキリストに対する信仰をもつのは、その教えの素晴らしさのためだけではなく、人を具体的に真に生かす力があるからです。人は自分が自分の力だけで生きるのではなく、キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに生きることを体験してきました。この体験こそがキリストへの信仰をはぐくみ保たせてきたのです。キリストへの信仰は、キリストに「生かされる」という実感を具体的に経験させるのです。このような実感を持つとき「主よ、わたしたちはだれのもとへ行きましょう。あなたは永遠の命のことばをもっておられます。」と宣言することになるのです。

  「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしに留まり、わたしもその人に留まる。」(6.55-56)

  わたしたちはキリストの肉を食することで、すなわち聖体を受けることで、キリストのように生き、行為することができるようになります。キリストは愛することを教えました。敵を愛しました。病人を癒しました。悪霊から人を守りました。罪を赦しました。

  人の回心力を引き出しました。富める青年に真のあり方を教えました。十字架上の死にいたるほどに弱くされている人の側にいました。キリストの肉を食するとは、キリストのこのようなあり方に近づき、まねながら生きる者になることです。この時間と空間の中で他人を具体的に生かす者になることです。

  また、キリストの血、すなわちミサ聖祭の中でのブドウ酒を飲むことで、神との新しい救いの契約を行うことになります。「救い」という言葉は、日常の中で、困難に直面することなく満たされながら生きている者にとって、心に強く迫ることばではありません。「私には救いは不要。なんでも自由に、自分の力でできるから」と考えるからです。自分が神になっている人にとって「救い」は滑稽なことでしかありません。しかし「救い」ということばの意味は、その人が神の恵みに満たされ、最高に神の似像に生きるものとなることを意味します。すなわち、自分が痛んでも、損をしてでも他を生かす者となれることです。それは自分を被虐化することでも、軽視することでもなく、「友のために命を捨てること。これ以上の愛はない」というイエスの言葉に真にいきることです。

  またキリストの血を頂くとは、それはいうまでもなく、霊的な意味においてですが、キリストの命にあずかることです。キリストは死と復活を通して「永遠の命」の相で、命を考え捉える可能性と力を回復してくださいました。 有限の現実を永遠の相で観ながら、永遠から力を汲む生き方ができるようになったのです。人間の有限の関わりを永遠にまで広げることができるようになったのです。すでに天の国へ旅立った先祖、故人たちとの実存的関わりとその意味を理解することが可能となりました。そして永遠の相で物事を見ることができるゆえに、死を恐れず「敵をも愛する」ことができるようになったのです。

  キリストへの信仰は私たちの日常を霊的に豊かにします。キリストに従う時に自分の存在が縦にも横にも広がり深まるのです。キリストに生きる味わいを知ったら、心が安定し、その活き活きした心が自分からあふれ、他を大切にするようになります。主キリストは、わたしたちの心がいつも満たされ、愛に溢れるものとなるように招き続けているのではないでしょうか。