しかし、司祭、修道者の召命の道を歩むために神学校、修道院の門を叩いてもその召命を生き続けるということは難しいことです。司祭生活、修道生活は、職業ではなく当然のことですが、“生活”なのです。生活は、“生きる”と“活きる”との二つの“いきる”が一つになって“生活”という言葉になります。まず大切なものは“生きる”ことです。この“生きる”というのは、その人が生まれて死ぬまでの人生と言ってもいいでしょう。その中に“活きる”が加わるのです。この“活きる”は、“生きる”ことを“活き活き”させる、何らかの節目や活力といっても言ってもいいのではないでしょうか。男性と女性が出会い、結婚し、子どもが生まれ、子どもの入園や入学、卒業、子どもの結婚、孫ができ、というように長い人生の中のいくつかの出来事や目標に挑む力とも言えるかもしれません。
司祭や修道者の“生活”もこれと同じように、神学校や修道院に入り、神学生や志願者として歩み始めます。教会の中の奉仕職や叙階、誓願を受けその道を歩み続けます。しかし、叙階後や誓願後も召命の道は続きます。しっかりとした“生きる”ということを歩まなければ召命を生き続けることは難しいと思います。私の同級生や先輩、後輩は何人もいましたが、今も修道者としての道を歩んでいる人は、ほんの数人です。 |