61~ / 41~60 / 21~40
---------------------------
みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
みことばをともに No13
みことばをともに No12
みことばをともに No11
みことばをともに No10
みことばをともに No9
みことばをともに No8
みことばをともに No7
みことばをともに No6
みことばをともに No5
みことばをともに No4
みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1

  召命にはいろいろあります。10人いればそれぞれの召命体験を見ることができます。たとえば、自分が司祭、修道者の道を望み、または、他の人からの影響を受けて召命の道を歩くようになった人もいます。私は、洗礼を受ける前に、教会の前を通った時に、“マザー・テレサ”の写真に出会い、それに惹かれて洗礼を受け、そのまま修道者の召命に入った人を知っています。何がその人を召命の道に導いたのでしょう。ただ召命の道を歩む人に共通して言えることは、「イエス様から呼ばれた」ということではないでしょうか。

  しかし、司祭、修道者の召命の道を歩むために神学校、修道院の門を叩いてもその召命を生き続けるということは難しいことです。司祭生活、修道生活は、職業ではなく当然のことですが、“生活”なのです。生活は、“生きる”と“活きる”との二つの“いきる”が一つになって“生活”という言葉になります。まず大切なものは“生きる”ことです。この“生きる”というのは、その人が生まれて死ぬまでの人生と言ってもいいでしょう。その中に“活きる”が加わるのです。この“活きる”は、“生きる”ことを“活き活き”させる、何らかの節目や活力といっても言ってもいいのではないでしょうか。男性と女性が出会い、結婚し、子どもが生まれ、子どもの入園や入学、卒業、子どもの結婚、孫ができ、というように長い人生の中のいくつかの出来事や目標に挑む力とも言えるかもしれません。

  司祭や修道者の“生活”もこれと同じように、神学校や修道院に入り、神学生や志願者として歩み始めます。教会の中の奉仕職や叙階、誓願を受けその道を歩み続けます。しかし、叙階後や誓願後も召命の道は続きます。しっかりとした“生きる”ということを歩まなければ召命を生き続けることは難しいと思います。私の同級生や先輩、後輩は何人もいましたが、今も修道者としての道を歩んでいる人は、ほんの数人です。

  神様は、すべての人に召命を与えたと言ってもいいでしょう。司祭、修道者、奉献生活を行う召命、もしくは、結婚生活という召命です。このみことばの悪魔から縛られていたゲラサの青年は、苦しみ、しがらみ、病などさまざまな困難を持っていたようです。彼は、自分一人ではどうすることもできない困難さの中、人がいない山や墓で生活するしかできなかったのでした。そんな彼をイエス様は、癒されたのです。彼は、イエス様に出会いようやく社会復帰ができるようになったのでしょう。今までの苦しみから解放され生きるという希望が生まれたと言ってもいいでしょう。そして、彼はイエス様に一緒に連れて行ってくださいと頼んだのです。しかし、イエス様は、「あなたの家、あなたの家族のもとに帰りなさい。そして、主があなたをあわれみ、あなたにどれほど大きなことを行われたかを、ことごとく告げなさい」。と仰せられて、彼がご自分たちと一緒に来ることを拒まれます。

  みことばをともに_No.16

  このように、召命には、イエス様ご自身がその人がもっとも“活き活き”として生きる場所を示される場合もあるのです。彼にとって、家族やその地域の人にイエス様の偉大さを宣べ伝えるということは、イエス様と一緒に宣教に出かけることと同じように尊いことですし、立派に召命を生きるということになるのです。パウロは、「神は、あらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに、栄光をお与えになっておられるのです。」(ローマ8・30)と伝えています。私たちは、どのような場所にいても、神様から選ばれ、“生活”できる場所を与えられているのではないかと思うのです。私たちは、今頂いている“生活”に感謝しながら主のために歩んでいきたいものです。 <完>