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私が小学生の頃、とても大好きな聖歌がありました。
それは「ごらんよ 空の鳥」でした。メロディーもさることながら、歌詞もとても気に入っていたのを今でも覚えています。
当時の私はカトリックの小学校に通い、家族とともに日曜日ごとに教会へ行くのは、至極当然のことでした。教会とともに過ごし、日常で神様の教えに出会い、当たり前のように祈り、しかも豊かな表現で信仰を表していたと思います。
そんな中、「神父様になりたい!」と思ったのも、侍者の奉仕をしながら、より間近で素敵な温かい神父様を見てきたので当然なのかもしれません。しかし、中学受験の失敗で第1希望の中学に入れず、カトリックとは何の関係もない世界に足を踏み入れ、「自分はもう神父様にはなれないんだ。」とある種のあきらめを感じ、と同時に、だんだんと教会から離れてしまったのも事実です。そして大学にいるときには一人暮らしも影響し、自ら進んで教会にいくということをしなくなりました。
時は流れ、社会人となり日々の忙しさにかまかけて、クリスマスや復活祭などの大きな祭日にしか教会に行かなくなっていました。 |
そんなとき、ふと、今の自分に疑問を持ちはじめました。周りの人からの言葉を受け、今の自分がいるのは果たして、なぜなのか。真剣に考えました。そして、たまたま日曜日が仕事の休みとなり、教会に久しぶりに行き、小さいころの夢を思い出しました。私は教会とともに過ごし、イエス様とともに歩み、神様と対話しながら生きてきたことを、思い出したのです。
そこで再び自分の召命を考えはじめました。今の仕事を辞めてよいのだろうか。長男の自分が神父になってよいのだろうか。このような悩みに苦しむなか、ミサの中で「ごらんよ 空の鳥」が奉納の時に歌われました。その時に、思わず泣きそうになった自分を今でも覚えています。その歌詞のなかで「こんなに小さな命にでさえ、心がける父がいる。友よ、友よ今日も。たたえて歌おう。すべてのものにしみとおる天の父のいつくしみを。」天の父の愛を、全身で感じた瞬間でした。もちろん、今でも不安はあり、未熟な私がここにいるのも事実です。しかし、神の愛を知った今、その人間の弱さをも天の御父にささげ、主とともに歩みたいという気持ちのほうが大きく、私を主にささげる道へと突き動かしました。主はいつも私とともにおり、御父の愛のまなざしに包まれている私は、御父を信頼してすべてをささげ、主に寄り頼み、昔も、今も、そしてこれからもその愛に根差して生きていけるよう、祈りとともに日々を過ごしていきたいと思います。 |
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