61~ / 41~60 / 21~40
---------------------------
みことばをともに No20
みことばをともに No19
みことばをともに No18
みことばをともに No17
みことばをともに No16
みことばをともに No15
みことばをともに No14
みことばをともに No13
みことばをともに No12
みことばをともに No11
みことばをともに No10
みことばをともに No9
みことばをともに No8
みことばをともに No7
みことばをともに No6
みことばをともに No5
みことばをともに No4
みことばをともに No3
みことばをともに No2
みことばをともに No1

 わたしは、23歳の時に洗礼を受けました。それまでのわたしは、信仰を持ちませんでした。それどころか、“神さま”なんておとぎ話の世界のことだと思っていました。
 キリスト信者となってから、何度となく、「どうしてわたしはもっと早くキリストと出会えることが出来なかったのだろう・・・」と思い、カトリックの家庭の人たちを羨んだりもしました。
 しかしある時から、わたしがこれまで過ごしてきた人生、経験したこと、出会った人々を一つひとつ辿ってみました。すると本当にいろいろなことがあり、それが全部、今のわたしに繋がっているのだと気付き始めました。

  旧約聖書の“コヘレトの言葉”の3章に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」という言葉があります。そして、わたしにも神さまがお定めになった“時”があったのです。
  わたしは、1冊の本をとおしてキリストを知りました。「塩狩峠」という本です。その頃のわたしは、「自分は何のために生きているのだろう。」「わたしにとって“生きる”とはいったい何なのか?どういう人生を歩みたいのか。」ということをよく考えていました。
その本の内容はとても感動的、というか衝撃でしたが、最も心を打った箇所は、ある伝道師が、雪の札幌の街角に立って説教していたその言葉でした。ちょっと長いですが、その一部を抜粋してみます。
これを聞いていた私と仲間たちは、この時から自分の祈りを見直し、もっと信頼して祈ることにした。

  まず、神様に願いと思いを打ち明けた(求めた)。すると示された(与えられた)。次に、示されたものがどこにどのようにあるのか探した。すると見つけた。勇気をもって、その門をたたいてみた。すると開かれた。その先には、それぞれの道が伸びていた。ひとりは結婚、ひとりは観想修道会、ひとりは活動修道会への道。それぞれ自分の求めていた道や神様から示されたと確信する道を見つけることができた。
  今も、日々の生活の中で、時々自分を振り返ってみる。私は「それ」を心から求めているのだろうか。本当に探そうとしているのだろうか。門をたたく気があるのだろうか。

  「・・・ほんとうの愛とはどんなものか皆さんおわかりですか。ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを、人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。命ではありませんか。このイエス・キリストは、大事なその命を我々に下さったのであります。・・・善いことばかりをしたイエスはこの世のすべての罪を背負って、十字架にかかられたのであります。彼は、自分に罪はないと言って、逃げることはできた筈であります。しかし、彼はそれをしなかった。悪くないものが、悪い者の罪を背負う。悪い者が、悪くないといって逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
しかも皆さん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、自分を十字架につけた者のために、かく祈り給うたのであります。〈父よ、彼らを許したまえ、そのなす所を知られざればなり〉
皆さん、今、自分を刺し殺す者のために、人間は祈り得るものでしょうか。イエスは許し給えと祈ったのであります。これこそ神の人格を所有する方であると、わたしは思うのであります。」
  宣教師のこの言葉に心を打たれ、そして、私の人生を一変させました。イエス・キリストとはどういう方なのか、もっと知りたい、教会に行きたい。という思いに駆られて当てもなく教会を探し始め、そしてある日、偶然にも見つけた教会がカトリック佐賀教会でした。初めて入った教会で、あるシスターに声をかけられ、1年間要理の勉強をして、洗礼の恵みを受けました。“修道生活”という生き方がある、と知った時「私の道を見つけた!」と思いました。
  神さまは、わたしが神さまを信じていない時から、もうまなざしを注いでおられ、ずっと時が熟すのを待っておられたのです。 今では、神さまの救いの計画に協力するため、信仰を持たなかった時期や様々な体験も、神さまのご計画の中にあり、わたしが神さまのものとなるために必要だったと受け止めています。
神さまが、「わたしは、良い折りにおまえに耳を傾け、救いの日におまえを助けた」のです。本当に、“時”を知っておられ、一番良い時にすべてを計らってくださる神さまにいつも信頼し続けたいものです。