物語の中では当時の人々やそばにいた弟子に話しかけておられる言葉です。また聖書はあらゆる人に向けて語りかけておられるもの、ということはわかっています。それでもこの瞬間だけは「私のために話してくださっている」と感じたのです・・・ぐっと涙があふれてきました。また、ちょっと前に聞いた父親の言葉も重なりました。なんとも優しいキリストの声とその愛、子を思う親の愛、すべてが重なり合って私を支えてくださっているのだ、というおおきな喜びと感動を味わい、ひとり泣いていました。
これまで、幼児洗礼を受け、当たり前のように長年教会に通いながらも、福音をこれほどに身近に、しかも自分自身に向けて語られているように感じた経験はありませんでした。
人は満たされているとき、人生順調なとき、あまり神やその愛を意識できないのかもしれません。逆境にあるとき、疲れたとき、辛いときにこそ神の言葉を胸のうちに感じる事ができるものなのだと痛切に思います。
それから改めて自分が何をしたいか、どうしたいかを考えたときに、昔から少しずつ感じていた「司祭職への招き」をはっきりと意識しました。そして、司祭を目指す決心をしたとき、それまですべて自分にとって悪い事であったと感じていた事、この人とは出会いたくなかったとまで思う人との出会いも、すべてが自分には必要なものであったと感じる事ができ、またそう思う事ができる自分に驚きました。ネガティブな考え方ばかりしていた自分があらゆることをポジティブに捕らえる事ができる。これは本当に自分にとっての「福音」でした。
今この文章を作りながら、あのときの思い、葛藤、喜びを思い出して再び感じています。この感じた「福音」をいつか人に伝える事ができるような司祭になりたいと願っています。 |